去年に引き続き、開運★当り隊は年始からご利益頂戴です。
1月10日、東京浅草の「浅草名所七福神巡り」を行ってまいりました。
今年一年の御利益をかなり頂いて来た気が致します。
宝当神社の御利益と合わせれば、必ずバラ色の人生が待っていると思います。
開運★当り隊では毎年始の行事として、各地の七福神めぐりを行っていく予定です。
今年も宜しくお願い致します。
大黒天(有福蓄財) 浅草寺
大黒天をお祀りしているのは浅草寺です。 推古天皇36(628)年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりです。 大化元(645)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立、また夢告によりご本尊は秘仏と定められ武蔵国の観音信仰の中心地となりました。 現在の本堂再建工事にあたって出土した数々の遺物から、金龍山浅草寺は少なくとも平安期には大寺の伽藍をここ武蔵野の一漁村に構えていたことが判りました。 平安期はじめ、慈覚大師の巡拝により伽藍の整備が行われ、その後一層信者の層も厚くなりました。以来、慈覚大師を中興開山と呼んでおります。 鎌倉期以降になると将軍自ら帰依するに及び、名将たちの篤い信仰を集めていよいよ観音霊場として知られるようになりました。 江戸時代、天海僧正(上野東叡山寛永寺の開創)の進言もあって、徳川幕府の祈願所と定められ、いわゆる江戸の信仰と文化の中心として庶民の間に親しまれ、以後の隆盛をみるようになったのです。 今日、東京(江戸)の発展は江戸城構築からの徳川幕府にはじまると思われがちですが、こうして浅草というところは古くから宗教的にも文化的にも江戸の拠点であった訳です。江戸が東京にかわったときでも、文明開化の先駆的な役割を果たし、庶民の信仰と文化の一大中心地として機能してきたことも当然といえるのです。
恵比寿天(愛敬) 浅草神社
浅草神社では恵比須神をお祀りしています。 推古天皇36(628)年3月18日、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の投網に観音ご尊像が現出なされました。郷長の土師真中知は、これを拝して篤く敬い、自宅に奉安し朝夕に礼拝、その生涯を安楽に終えました。 真中知の歿後、嫡子が観音様から夢告を受け、それ以来、祖先神、郷土神を祀る「三社権現社」として篤く祀られることになったと伝えられています。明治の神仏分離令により「浅草神社」と改称しました。 その創建時代には不明なところもあるようですが、鎌倉初期が通説となっています。 浅草神社では江戸三大祭の一つ「三社祭」が、「火事と喧嘩は江戸の華」といわれる江戸っ子の心意気を示して、神と人が一体となって行われることは周知の事実です。 この三社祭の歴史は古く、一説には正和元(1312)年の船祭に始まるともいわれていますが、江戸期に入って三代将軍徳川家光の社殿ならびに神輿 の新たな造営を機に江戸市中の一大イベントとなりました。
福禄寿(人望福徳) 矢先神社
矢先神社では福禄寿をお祀りしています。 寛永19(1642)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立しました。 三十三間堂では弓の射技練成のために「通し矢」が行われました。通し矢は先人に勝てば堂に掲額できるとあって武士としての名誉となり、大いに流行したようです。この通し矢は江戸市民にも観覧が許され、評判を博しました。 京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられました。いまからおよそ360年前のことになります。 ご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀りります。ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっています。 創建以来、創業、学業、人徳の成就と武運長久の神徳に、武士、町人を問わずに尊信を篤くしました。 ところが約60年後の元禄11(1698)年9月6日、浅草を中心として大火で焼失してしまい、三十三間堂の方は深川に移転を命ぜられてしまいましたが、その鎮守である当社は信仰心の篤い町民の要望で当地の産土神として再建が許されました。 その後も関東大震災、東京大空襲などで幾多の困難に遭いましたが、いずれも難をくぐりぬけて現在に至っています。
寿老人(延命長寿) 鷲神社
酉の祭、酉の市で知られる鷲神社は寿老人をお祀りしています。江戸下町を代表する神社で、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されて古くから江戸下町の民衆に篤く尊信されてきました。 鷲神社の創始についてはもとよりつまびらかではありませんが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。 天照大御神が天の岩戸におかくれになり、天宇受売命(あまのうずめのみこと)が岩戸の前で舞を舞われたとき、楽器の弦を奏でられました。命の父神、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)が岩戸をお開きになりますと、その弦の先に鷲がどこからともなく飛んできてとまりました。その様子を固唾をのんで見守っていた八百万の神々は、その光景を、世の中を明るくする瑞祥(よいしるし)だとして、鷲の一字を入れて「天日鷲命」と称しました。 そして天日鷲命は、開運、開拓の福神として当地に鎮座されたのです。 ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は後に東征の帰途、当社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことからその日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりなのです。 その後、ご祭神の福徳はますます世に広がり、江戸時代になると下町の民衆の篤い尊信を受け、とりわけ11月酉の日の祭礼は、諸願を祈る老若男女が境内にたくさん集まり、たいへんな賑わいを見せました。今日(こんにち)でも酉の市の隆昌は、江戸下町の情緒をたっぷりと味わせてくれています。そして酉の市には縁起物として熊手が登場してくるのです。 とにかく鷲神社の例祭(酉の市)は大変な人気で、酉の日の午前零時を期に打ち鳴らされる太鼓の合図とともにはじまる祭は、その日一日、江戸っ子の人いきれが境内にあふれます。
弁財天(芸道富有) 吉原神社
吉原神社でお祀りしているのは、弁財天です。 吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。 元和3(1617)年、徳川幕府の命によって、江戸市中各地に散在していた遊女屋は日本橋葦町あたりに廓として統合されました。これが「江戸元吉原」です。 その後、明暦3(1655)年の大火のあと千束村に移転を命ぜられ、そこに新しく造られたのが「新吉原」ということになります。 新吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られておりました。 この五社が明治5年に合祀されることになり「吉原神社」として創建されました。吉原神社の歴史は新吉原遊郭のそれと折り重なり、廓の鎮守の神として古くから崇敬されてきました。 五社のなかでも 九朗助稲荷社の創建は古く、和同4(711)年、白狐黒狐が天下るのを見た千葉九朗助という人の手で元吉原の地に勧請されたのがはじまりとされています。そして廓の千束村への移転にともなって浅草新吉原の地にふたたび勧請されました。 廓内の神のなかでも伝説や逸話に富み、遊女、遊客とからみ、開運、縁結び、商売繁昌のご利益のある神として華やかな信仰を集め、その様は江戸の小噺集などにもしばしば登場しています。
布袋尊(清廉度量) 橋場神社
布袋尊をお祀りしている不動院(橋場不動尊)は、天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。当初は法相(ほっそう)宗でしたが、長寛元(1163)年に時の住職教円(一説には長円)によって天台宗に宗派を改め、鎌倉以降は浅草寺の末寺となりましたが、現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。 江戸時代には、周辺の三条公、有馬候、池田備前候などをはじめとする武家の尊信をも集め、明治末年の大化、関東大震災、そして昭和20年3月の東京大空襲の際にも、不動院を中心とした橋場の一角だけは災禍をまぬがれたことから、霊験あらたかな橋場不動尊として現在でも広く庶民に尊信されています。 現在の本堂は、弘化2(1845)年建立のもので、小堂ながら江戸時代の建築様式を保ち、美しく簡素なたたずまいをしめしています。
寿老神(延命長寿) 石浜神社
寿老神をお祀りしている石浜神社は、聖武天皇神亀元(724)年9月、勅願によって当地に鎮守され、源頼朝が藤原泰衡征討の折、当社に祈願して「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み、大勝の目的を果たしたので後日、社殿を造営寄進し、神恩に報いました。 建久・正治(1190~1200)のころ、千葉氏、宇都宮氏の尊崇が篤く、また関八州の庶民が伊勢参宮にかえて当社に詣で、おはらいを受けました。 当地は東に隅田川、西に富士、北に筑波を遠望する清浄な地で神域にふさわしく、隅田河畔の名所として江戸庶民の信仰厚く、隆昌をみたので「隅田名勝八景」「江戸名所図会」「東都歳時記」などにとりあげられております。 明治5年に郷社に定められました。白ひげ西地区再開発事業により昭和63年9月に現在地に遷座しました。 境内には真先稲荷、招来(おいで)稲荷、江戸、北野、妙義八幡、粟島水神、大工祖神あらかの摂末社、それに富士遥拝所があり、亀田鵬斎の隅田川詩碑、「伊勢物語」の都鳥の碑などもあり、また石浜鳥居は独特なものです。 特定はできませんが、当地は石浜城があったところといわれ注目を集めています。 伊勢の大神様をお祀りしていることから、朝日神明宮とも言われています。
福禄寿(人望福徳) 今戸神社
福禄寿をお祀りしている今戸神社は、後冷泉天皇康平6(1063)年、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)の討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。 その後、白河天皇永保元(1081)年、謀反を起こした清原武衡・家衡討伐のため、源義家が今之津を通過するにあたり戦勝を祈願しました。その甲斐あって勝ち戦をおさめることができ、義家は神徳に報いて社殿を修復しました。 戦乱兵火に遭うごとに再建されることしばしばでした。 江戸時代、三代将軍徳川家光は、今戸八幡の再建のために官材を下され、船越伊豫守と八木但馬守に命じて寛永13(1636)年に再建がなりました。 大正12年9月の関東大震災によって社殿はまたも灰燼に帰し、まもなく復興したものの昭和20年3月の東京大空襲でも重ねて被災の憂き目に遭ってしまいました。 こうした被災→再建の歴史をくり返しながら、同46年11月、現在の荘厳な社殿が氏子崇敬者の浄財によって造営されました。 その間、昭和12年7月に今戸の隣地に鎮守されていた白山神社と合祀、社名が今戸神社と改称されました。 雁神天皇とその母神功皇后は大陸文化を輸入して日本の文化興隆を図られたことでは周知のとおりで、両神の関係は母子の情愛の信仰が古代の日本にあったことのあらわれです。ですから八幡様の信仰は、一般には家運長久の霊験と思われていますが、一方で母がわが子を抱きかかえ、慈愛をこめて子を育てる大愛を本願としているのです。 伊弉諾・伊弉冉の二柱の神は、天神の命を受けて日本の国土を創成し、諸神を生み、山海や草木を生したといわれる男女の神で、古くから産霊(むすび)の神として仰がれています。「古事記」や「日本書紀」を見るまでもなく、縁を結び、生産の基盤を固める神として崇められています。
毘沙門天(勇気授福) 待乳山聖天
待乳山聖天では毘沙門天をお祀りしています。 古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。 この不思議な降起は実は十一面観音菩薩の化身「大聖歓喜天」がご出現になるおめでたい先触れであったのです。それから6年後、天候不順に人々は悩まされていました。永い日照りが続き、人々を飢えと焦熱の地獄におとしいれました。そのとき大聖歓喜天がご出現になり、こうした人々を苦しみからお救いになられたそうです。 それ以来、民衆からの篤い尊信が集まり、平安時代になると天安元(857)年、慈覚大師が東国巡拝のおり、当山にこもって21日の間浴油修行をなされて国家安泰、庶民の生活安定を祈願し、自ら十一面観世音菩薩像を彫って奉安されたと伝えられています。 そして、ここに当山の信仰の基礎が形成され、その後ますます民衆の尊信をあつめるに至りました。 ことに江戸時代元禄華やかなりし頃には境内地、諸堂が整備されて今日の土台が完成されました。 以来、関東大震災、東京大空襲などにも遭いましたが今日まで篤い尊信は続いています。 ご本尊の大聖歓喜天は仏法を守護する大本の神様として、ことに庶民の迷いを救い、願いをかなえてくださる広大な包容力をもっています。当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しています。
七福神巡りは文化文政の頃から各地で特に盛んになり、人々に親しまれてきました。
浅草名所七福神は九社寺あります。
「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という古事に由来したことによります。
古い歴史を有する浅草には、観音様の境内を中心として広く各所に名跡があります。